第31回(昭和52年)の代表は米村幸一氏。前年準名人招待を含む6年連続の代表で、通算10回目。10回という数に満足されたのか、氏が代表になったのはこれが最後。
第32回は勝部素光氏。今もお元気で活躍されている。
第33回は宮崎秀雄氏。7回目で、この年は3位入賞。
第34回も宮崎氏で8回目。氏もこの後は代表になられてない。
第35回は上村猛氏。現在は関東の方にお住まい。それと松田隆氏が西支部名人の資格で招待出場。これで3回目。
第36回は山根一郎氏で2回目。
第37回(昭和57年)より新日本海新聞社主催となり、それに伴い予選方式が大きく変更になった。これまでは東・中・西3地区で予選を行い、3・2・3人の地区代表を決めて、8人の県大会で代表を決めていたのだが、この年以降は県大会一発方式になった。この後中国名人戦など、ほかの大会もそれに習った。昭和50年代になって大会の数が劇的に増加し、日程の調整が難しくなってきたためである。
新制度初回のこの年は北村重嗣氏(鳥大将棋部師範)が決勝で松田氏を破り2回目の代表。
第38回は松田氏が4回目の代表。2回目と3回目は西支部準名人・西支部名人としての招待出場であり、鳥取県代表としての出場は高校生だった第23回以来、実に15年ぶりとなる。
第39回は興津信之氏。今も選手として活躍中。
第40回は山根氏で3回目。氏もこの後代表になられてない。
以下、次の機会に続く。

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