84年、宇仁菅が入学。18代部長は桐谷。第31回中四、理由はよく覚えてないのだが、この時も6人となりB1級4位。しかし第32回中四ではちゃんと人数をそろえることができ、B1級優勝で7年ぶりにA級復帰となった。
85年、柴原・横田が入学。19代部長は山口。第33回中四、私が入学して以降最多の10人が参加。そこで久々にC級(2軍)チームを作って、1軍は7人の固定オーダーとした。上位7人と下位3人の実力差が大きかったからだ。1軍は上から順に宮地・私・山本氏・桐谷・原田・山口・宇仁菅という、この時点における最強の7人。今考えても、鳥大史上最強のメンバーだと思う。とにかく全く穴がない。初戦、前回優勝の高知大に勝ち。次は宮本君(後のアマ名人・アマ王将・支部名人)率いる広島修道大に勝ち(宮地が宮本君を撃破!)。さらに優勝候補筆頭の広島大(7人中6人が個人戦ベスト8以上)に勝ち。最後、初優勝プレッシャーか松山商科大(現・松山大)に苦戦するも、3-3から宇仁菅が勝って、完全優勝となった。個人戦でも宇仁菅がベスト8入り。
しかしこの直後原田が退部するアクシデント発生。団体優勝で満足した彼はこの後勉学に専念するということだった。西日本学生将棋大会には宮地・山本氏・私・桐谷・山口の5人で出場、8位になった。また個人戦に山本氏と宮地が出場、宮地が西日本個人戦における鳥大初勝利を挙げた。
第34回中四、できれば連覇して王座戦に行きたかったが、原田の抜けた穴は大きく、団体はA級4位。しかし山口が個人戦で3位になった。ちなみにこの時の入賞者は、優勝赤畠君(岡山大。この後全国も制し学生王将に)、準優勝田尻氏(広島工業大。初代アマ竜王、アマ名人2回)、3位宮本君という、中四史上最強のメンバーだった。
3月、山本氏が卒業。ちなみに山本氏は6年制の獣医学科であり、留年されていたわけではない。
85年、柴原・横田が入学。19代部長は山口。第33回中四、私が入学して以降最多の10人が参加。そこで久々にC級(2軍)チームを作って、1軍は7人の固定オーダーとした。上位7人と下位3人の実力差が大きかったからだ。1軍は上から順に宮地・私・山本氏・桐谷・原田・山口・宇仁菅という、この時点における最強の7人。今考えても、鳥大史上最強のメンバーだと思う。とにかく全く穴がない。初戦、前回優勝の高知大に勝ち。次は宮本君(後のアマ名人・アマ王将・支部名人)率いる広島修道大に勝ち(宮地が宮本君を撃破!)。さらに優勝候補筆頭の広島大(7人中6人が個人戦ベスト8以上)に勝ち。最後、初優勝プレッシャーか松山商科大(現・松山大)に苦戦するも、3-3から宇仁菅が勝って、完全優勝となった。個人戦でも宇仁菅がベスト8入り。
しかしこの直後原田が退部するアクシデント発生。団体優勝で満足した彼はこの後勉学に専念するということだった。西日本学生将棋大会には宮地・山本氏・私・桐谷・山口の5人で出場、8位になった。また個人戦に山本氏と宮地が出場、宮地が西日本個人戦における鳥大初勝利を挙げた。
第34回中四、できれば連覇して王座戦に行きたかったが、原田の抜けた穴は大きく、団体はA級4位。しかし山口が個人戦で3位になった。ちなみにこの時の入賞者は、優勝赤畠君(岡山大。この後全国も制し学生王将に)、準優勝田尻氏(広島工業大。初代アマ竜王、アマ名人2回)、3位宮本君という、中四史上最強のメンバーだった。
3月、山本氏が卒業。ちなみに山本氏は6年制の獣医学科であり、留年されていたわけではない。
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