1995年、第53回大会は吉備国際大が欠場し17校参加。団体戦A級は広島大が優勝(6大会連続通算19回目)。準優勝は愛媛大。鳥大はB1級3位。
個人戦(80人参加)は広島大の中島君が優勝。準優勝は香川大の宮田君。
第54回大会は18校参加。団体戦A級は広島大が優勝(7大会連続通算20回目)。準優勝は香川大。鳥大はB1級優勝でA級へ。
個人戦(107人参加)は吉備国際大の田頭君が優勝。準優勝は岡山大の池田君。鳥大勢は西川がベスト8に入った。ベスト8は第36回の私以来、実に18大会ぶり。こんなに長いことベスト8に入らなかった時期は他にない。そしてこの後はこれまでがまるでうそのように勝ち始める。
1996年、第55回大会は吉備国際大が欠場し17校参加。団体戦A級は広島大が優勝(8大会連続通算21回目)。8連覇は現在まで破られてない大記録だ。準優勝は岡山大。鳥大はA級6位で降級。
個人戦(107人参加)は広島大の宮坂君が優勝。準優勝は香川医科大の石黒君。鳥大勢は佐々木が4位に入り、学生名人戦出場となった。ベスト4は第34回の山口(3位)以来、実に21大会ぶりで、学生名人戦出場は1972年の北村氏以来、実に24年ぶり2人目。しかしこの後は鳥大から続々と全国出場者が誕生し続けることになる。
第56回大会は香川医科大と高知医科大が欠場し16校参加。団体戦A級優勝は岡山大(10大会ぶり3回目)。準優勝は広島大。鳥大はB1級優勝でA級へ。
個人戦(85人参加)は広島大の臼井君が優勝。準優勝は岡山大の松尾君。
個人戦(80人参加)は広島大の中島君が優勝。準優勝は香川大の宮田君。
第54回大会は18校参加。団体戦A級は広島大が優勝(7大会連続通算20回目)。準優勝は香川大。鳥大はB1級優勝でA級へ。
個人戦(107人参加)は吉備国際大の田頭君が優勝。準優勝は岡山大の池田君。鳥大勢は西川がベスト8に入った。ベスト8は第36回の私以来、実に18大会ぶり。こんなに長いことベスト8に入らなかった時期は他にない。そしてこの後はこれまでがまるでうそのように勝ち始める。
1996年、第55回大会は吉備国際大が欠場し17校参加。団体戦A級は広島大が優勝(8大会連続通算21回目)。8連覇は現在まで破られてない大記録だ。準優勝は岡山大。鳥大はA級6位で降級。
個人戦(107人参加)は広島大の宮坂君が優勝。準優勝は香川医科大の石黒君。鳥大勢は佐々木が4位に入り、学生名人戦出場となった。ベスト4は第34回の山口(3位)以来、実に21大会ぶりで、学生名人戦出場は1972年の北村氏以来、実に24年ぶり2人目。しかしこの後は鳥大から続々と全国出場者が誕生し続けることになる。
第56回大会は香川医科大と高知医科大が欠場し16校参加。団体戦A級優勝は岡山大(10大会ぶり3回目)。準優勝は広島大。鳥大はB1級優勝でA級へ。
個人戦(85人参加)は広島大の臼井君が優勝。準優勝は岡山大の松尾君。
1993年、第49回大会は19校参加。団体戦A級優勝は広島大(2大会連続通算15回目)。準優勝は山口大。鳥大はA級6位でB1級へ降級。
個人戦(95人参加)は島根大の伊ヶ崎君が優勝(2大会連続通算4回目)。準優勝は広島経済大の山縣君。
第50回大会は19校参加。団体戦A級優勝は広島大(3大会連続通算16回目)。準優勝は山口大。鳥大はB1級2位。
個人戦(128人参加)は伊ヶ崎君が3大会連続通算5回目の優勝。優勝5回は田尻氏と並ぶ歴代最多優勝。準優勝は愛媛大の流田君。
1994年、第51回大会は近畿大呉が消え、香川医科大と下関市大が欠場。16校参加。団体戦A級優勝は広島大(4大会連続通算17回目)。準優勝は山口大。鳥大はB1級3位。
個人戦(128人参加)は香川医科大の石黒君が初優勝。準優勝は愛媛大の流田君。
第52回大会は18校参加。団体戦A級優勝は広島大で、新記録の5連覇。通算18回目。準優勝は愛媛大。鳥大はB1級3位。
個人戦(100人参加)は広島経済大の野曽君が優勝。準優勝は松山大の中西君。
個人戦(95人参加)は島根大の伊ヶ崎君が優勝(2大会連続通算4回目)。準優勝は広島経済大の山縣君。
第50回大会は19校参加。団体戦A級優勝は広島大(3大会連続通算16回目)。準優勝は山口大。鳥大はB1級2位。
個人戦(128人参加)は伊ヶ崎君が3大会連続通算5回目の優勝。優勝5回は田尻氏と並ぶ歴代最多優勝。準優勝は愛媛大の流田君。
1994年、第51回大会は近畿大呉が消え、香川医科大と下関市大が欠場。16校参加。団体戦A級優勝は広島大(4大会連続通算17回目)。準優勝は山口大。鳥大はB1級3位。
個人戦(128人参加)は香川医科大の石黒君が初優勝。準優勝は愛媛大の流田君。
第52回大会は18校参加。団体戦A級優勝は広島大で、新記録の5連覇。通算18回目。準優勝は愛媛大。鳥大はB1級3位。
個人戦(100人参加)は広島経済大の野曽君が優勝。準優勝は松山大の中西君。
1991年、第45回大会は近大呉が欠場で17校参加。団体戦A級は山口大が初優勝。準優勝は広島経済大。鳥大はB2級2位。
個人戦(100人参加)は島根大の伊ヶ崎君が3大会ぶり2回目の優勝。準優勝は岡山大の荒瀬君。
第46回大会は18校参加。団体戦A級優勝は岡山大(2大会ぶり2回目)。準優勝は島根大。鳥大はB2級2位。
個人戦(91人参加)は岡山大の永岡君が優勝。準優勝は島根大の伊ヶ崎君。
1992年、第47回大会は広島修道大と香川医科大が欠場し16校参加。団体戦A級は愛媛大が17大会ぶり11回目の優勝。準優勝は広島大。鳥大はB2級優勝で6年ぶりにB1級へ。長かった暗黒時代に終止符を打った。なお、愛媛大はこの時以降優勝から遠ざかっている。
個人戦(86人参加)は広島大の原田君が優勝。準優勝は岡山大の永岡君。
第48回大会は吉備国際大が加わり現在までで最多の19校が参加。団体戦A級優勝は広島大(5大会ぶり14回目)。準優勝は岡山大。鳥大はB1級優勝で7年ぶりにA級復帰。
個人戦(102人参加)は島根大の伊ヶ崎君が3大会ぶり3回目の優勝。準優勝は広島経済大の野曽君。
この48回は鳥取開催だったのだが、19校になったため、B2級は7校のリーグになった。7校だと抜け番ができるため7回戦。6校は5回戦だから2回多くなる。そのため初日はB2級だけ夜遅くまでやることになった。この頃の中四は今と違って、初日は団体戦4局。2日目の午前に団体戦最終局、午後に個人戦予選。3日目に個人戦本戦という日程だったから、B2級のみ初日6局やってもらったのだが、今のように初日に団体戦を全部やってしまう日程だとさすがに消化不可能だったろう。もし将来加盟校が19校に戻ることがあれば、4リーグにするしかないだろう。現状は14校なので、19校になることはなかなかなさそうではあるが。
個人戦(100人参加)は島根大の伊ヶ崎君が3大会ぶり2回目の優勝。準優勝は岡山大の荒瀬君。
第46回大会は18校参加。団体戦A級優勝は岡山大(2大会ぶり2回目)。準優勝は島根大。鳥大はB2級2位。
個人戦(91人参加)は岡山大の永岡君が優勝。準優勝は島根大の伊ヶ崎君。
1992年、第47回大会は広島修道大と香川医科大が欠場し16校参加。団体戦A級は愛媛大が17大会ぶり11回目の優勝。準優勝は広島大。鳥大はB2級優勝で6年ぶりにB1級へ。長かった暗黒時代に終止符を打った。なお、愛媛大はこの時以降優勝から遠ざかっている。
個人戦(86人参加)は広島大の原田君が優勝。準優勝は岡山大の永岡君。
第48回大会は吉備国際大が加わり現在までで最多の19校が参加。団体戦A級優勝は広島大(5大会ぶり14回目)。準優勝は岡山大。鳥大はB1級優勝で7年ぶりにA級復帰。
個人戦(102人参加)は島根大の伊ヶ崎君が3大会ぶり3回目の優勝。準優勝は広島経済大の野曽君。
この48回は鳥取開催だったのだが、19校になったため、B2級は7校のリーグになった。7校だと抜け番ができるため7回戦。6校は5回戦だから2回多くなる。そのため初日はB2級だけ夜遅くまでやることになった。この頃の中四は今と違って、初日は団体戦4局。2日目の午前に団体戦最終局、午後に個人戦予選。3日目に個人戦本戦という日程だったから、B2級のみ初日6局やってもらったのだが、今のように初日に団体戦を全部やってしまう日程だとさすがに消化不可能だったろう。もし将来加盟校が19校に戻ることがあれば、4リーグにするしかないだろう。現状は14校なので、19校になることはなかなかなさそうではあるが。
1989年(平成元年)、第41回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(3大会連続通算12回目)、準優勝は岡山大。鳥大はB2級2位(5回連続!)。
個人戦(88人参加)は4大会連続で広島修道大同士の決勝となり、白石君が3大会ぶり2回目の優勝。準優勝は福本君。
第42回大会は香川医科大が欠場し15校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(4大会連続通算13回目)、準優勝は岡山大。鳥大はわずか4人での参加でB2級3位(不思議なことに最下位ではなかった)。この時点で優勝回数1位の広島修道大だが、この後は1度も優勝してない。
個人戦(100人参加)は島根大の伊ヶ崎君(現・アマ竜王)が初優勝。準優勝は広島大の佐々木君。この年から学生十傑戦の代表枠が2に増えた。中四の加盟校は増えてきているが、他地区は減りはじめたためだ。
1990年、第43回大会は近大呉が欠場したが、香川大が加わり16校参加。団体戦A級優勝は広島大(5大会ぶり13回目)、準優勝は岡山大。鳥大はB2級4位(現在までで最低の順位。今は加盟校数が減っているので、これ以下にはなりようがない)。
個人戦(117人参加)は広島修道大の福本君が優勝、準優勝は広島工業大の小林君。
第44回大会は高知医科大(現・高知大医学部)が加わり18校参加。これによりA級が6校になった(これまでは5校)。
団体戦A級優勝は岡山大(初)、準優勝は広島大。鳥大はB2級2位。
個人戦(109人参加)は広島修道大の白石君が3大会ぶり3回目の優勝。準優勝は広島経済大の中川君。
個人戦(88人参加)は4大会連続で広島修道大同士の決勝となり、白石君が3大会ぶり2回目の優勝。準優勝は福本君。
第42回大会は香川医科大が欠場し15校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(4大会連続通算13回目)、準優勝は岡山大。鳥大はわずか4人での参加でB2級3位(不思議なことに最下位ではなかった)。この時点で優勝回数1位の広島修道大だが、この後は1度も優勝してない。
個人戦(100人参加)は島根大の伊ヶ崎君(現・アマ竜王)が初優勝。準優勝は広島大の佐々木君。この年から学生十傑戦の代表枠が2に増えた。中四の加盟校は増えてきているが、他地区は減りはじめたためだ。
1990年、第43回大会は近大呉が欠場したが、香川大が加わり16校参加。団体戦A級優勝は広島大(5大会ぶり13回目)、準優勝は岡山大。鳥大はB2級4位(現在までで最低の順位。今は加盟校数が減っているので、これ以下にはなりようがない)。
個人戦(117人参加)は広島修道大の福本君が優勝、準優勝は広島工業大の小林君。
第44回大会は高知医科大(現・高知大医学部)が加わり18校参加。これによりA級が6校になった(これまでは5校)。
団体戦A級優勝は岡山大(初)、準優勝は広島大。鳥大はB2級2位。
個人戦(109人参加)は広島修道大の白石君が3大会ぶり3回目の優勝。準優勝は広島経済大の中川君。
1987年、第37回大会は下関市大が欠場し14校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(3大会ぶり9回目)、準優勝は広島大。鳥大はB2級2位。
個人戦はなぜかたったの64人の参加で、この回に限り予選なし。岡山開催でどうしてこんなに少なかったのだろうか? 優勝は広島大の柿本君(4大会ぶり2回目)、準優勝は広島修道大の宮本君。
第38回大会は下関市大が欠場したが、新たに香川医科大(現・香川大医学部)が加わり15校参加。団体戦A級優勝は広島大(3大会ぶり12回目)、準優勝は広島修道大。鳥大はB2級2位。
個人戦(80人参加)は広島修道大同士の決勝になり、白石君が初優勝、宮本君が準優勝。
1988年、第39回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(2大会ぶり10回目)、準優勝は広島大。鳥大はB2級2位。
個人戦(83人参加)は前回と同じカードとなり、宮本君が4大会ぶり2回目の優勝、準優勝は白石君。
第40回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(2大会連続通算11回目)、準優勝は岡山大。鳥大はB2級2位。
個人戦(100人参加)は3回連続の同一カードで宮本君が2大会連続通算3回目の優勝、白石君が準優勝。
個人戦はなぜかたったの64人の参加で、この回に限り予選なし。岡山開催でどうしてこんなに少なかったのだろうか? 優勝は広島大の柿本君(4大会ぶり2回目)、準優勝は広島修道大の宮本君。
第38回大会は下関市大が欠場したが、新たに香川医科大(現・香川大医学部)が加わり15校参加。団体戦A級優勝は広島大(3大会ぶり12回目)、準優勝は広島修道大。鳥大はB2級2位。
個人戦(80人参加)は広島修道大同士の決勝になり、白石君が初優勝、宮本君が準優勝。
1988年、第39回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(2大会ぶり10回目)、準優勝は広島大。鳥大はB2級2位。
個人戦(83人参加)は前回と同じカードとなり、宮本君が4大会ぶり2回目の優勝、準優勝は白石君。
第40回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(2大会連続通算11回目)、準優勝は岡山大。鳥大はB2級2位。
個人戦(100人参加)は3回連続の同一カードで宮本君が2大会連続通算3回目の優勝、白石君が準優勝。
1986年、第35回大会は下関市立大が欠場し14校参加。団体戦A級優勝は広島大(4大会ぶり11回目)、準優勝は広島修道大。鳥大はA級5位でB1級降級。
個人戦(118人参加)は広島修道大同士の決勝となり宮本君が初優勝、白石君が準優勝。
中四の翌日、広島将棋センターにおいて、日本アマチュア将棋連盟機関誌「将棋ジャーナル」企画、第6回局面指定団体トーナメント(西日本編)が開催された。出場校は中四から7校(広島修道大・広島大・岡山大・鳥取大・島根大・松山商科大・広島工業大)と九州から前年度王座戦優勝校の九大。優勝は九大(牧野・古賀・高田)、準優勝は松商(森貞・木山・市川)だった。
第36回大会は15校が参加。団体戦優勝は島根大(31大会ぶり2回目)、準優勝は松山商科大。鳥大はB1級6位で連続降級。
個人戦(92人参加)は愛媛大の久保君が優勝、準優勝は広島工業大の開原君だった。鳥大勢は私がベスト8に入った。
後にアマ名人になる開原君だが、中四名人には1度もなってない。この頃の中四には田尻氏(広工。アマ名人2回・アマ竜王)赤畠君(岡大。学生王将・準アマ名人)宮本君(広修。アマ名人・アマ王将・支部名人)白石君(広修。準アマ王将)らが居て、個人戦のレベルは非常に高かった。
個人戦(118人参加)は広島修道大同士の決勝となり宮本君が初優勝、白石君が準優勝。
中四の翌日、広島将棋センターにおいて、日本アマチュア将棋連盟機関誌「将棋ジャーナル」企画、第6回局面指定団体トーナメント(西日本編)が開催された。出場校は中四から7校(広島修道大・広島大・岡山大・鳥取大・島根大・松山商科大・広島工業大)と九州から前年度王座戦優勝校の九大。優勝は九大(牧野・古賀・高田)、準優勝は松商(森貞・木山・市川)だった。
第36回大会は15校が参加。団体戦優勝は島根大(31大会ぶり2回目)、準優勝は松山商科大。鳥大はB1級6位で連続降級。
個人戦(92人参加)は愛媛大の久保君が優勝、準優勝は広島工業大の開原君だった。鳥大勢は私がベスト8に入った。
後にアマ名人になる開原君だが、中四名人には1度もなってない。この頃の中四には田尻氏(広工。アマ名人2回・アマ竜王)赤畠君(岡大。学生王将・準アマ名人)宮本君(広修。アマ名人・アマ王将・支部名人)白石君(広修。準アマ王将)らが居て、個人戦のレベルは非常に高かった。
1985年、第33回大会は15校が参加。団体戦A級は鳥大が初優勝。準優勝は広島大。
個人戦(123人参加)は広島大の柿本君が初優勝。準優勝は愛媛大の久保君だった。鳥大勢は宇仁菅(後の初代ストレッチマン)がベスト8だった。
第34回大会は下関市大が欠場し14校参加。団体戦A級は広島修道大が優勝(6大会ぶり8回目)。準優勝は広島大。鳥大はA級4位だった。
個人戦(122人参加)は岡山大の赤畠君が2大会ぶり3回目の優勝。準優勝は広島工業大の田尻氏だった。鳥大勢は山口(恵梨子女流初段の父)が3位に入った。
この年の学生十傑戦で赤畠君が優勝、中四勢3人目の学生王将となった。これ以降中四勢の学生全国タイトルはない。
この時点までの団体戦優勝回数をまとめると、1位は愛媛大と広島大が10回ずつで並んでいる。3位は広島修道大で8回。この下は大きく離されていて、4位は高知大の2回。岡山理科大・島根大・松山商科大・鳥取大が各1回となっている。
今と比べてずいぶん違った顔ぶれだ。近年何度も優勝している岡山大は、この時点ではまだ1度も優勝しておらず、準優勝も1回だけだ。現在A級の香川大はまだ加盟すらしてない。反対に1位タイの愛媛大は1992年の第47回に11回目の優勝をして以降優勝してないし、3位の広島修道大もこの後一時代を築くが、1990年の第42回に13回目の優勝して以降優勝してない。
個人戦(123人参加)は広島大の柿本君が初優勝。準優勝は愛媛大の久保君だった。鳥大勢は宇仁菅(後の初代ストレッチマン)がベスト8だった。
第34回大会は下関市大が欠場し14校参加。団体戦A級は広島修道大が優勝(6大会ぶり8回目)。準優勝は広島大。鳥大はA級4位だった。
個人戦(122人参加)は岡山大の赤畠君が2大会ぶり3回目の優勝。準優勝は広島工業大の田尻氏だった。鳥大勢は山口(恵梨子女流初段の父)が3位に入った。
この年の学生十傑戦で赤畠君が優勝、中四勢3人目の学生王将となった。これ以降中四勢の学生全国タイトルはない。
この時点までの団体戦優勝回数をまとめると、1位は愛媛大と広島大が10回ずつで並んでいる。3位は広島修道大で8回。この下は大きく離されていて、4位は高知大の2回。岡山理科大・島根大・松山商科大・鳥取大が各1回となっている。
今と比べてずいぶん違った顔ぶれだ。近年何度も優勝している岡山大は、この時点ではまだ1度も優勝しておらず、準優勝も1回だけだ。現在A級の香川大はまだ加盟すらしてない。反対に1位タイの愛媛大は1992年の第47回に11回目の優勝をして以降優勝してないし、3位の広島修道大もこの後一時代を築くが、1990年の第42回に13回目の優勝して以降優勝してない。
1983年、第29回大会は岡理と近大呉が欠場、前回加盟の広島電機大はわずか1期で消え、14校参加。団体戦A級優勝は広島大(4大会ぶり9回目)。準優勝は岡山大。岡大が2位以上になったのはこの時が初。鳥大はB1級3位だった。
個人戦(128人参加)は岡山大の赤畠君が初優勝、準優勝は松山商科大の岡本氏だった。
第30回大会は徳島大が欠場し15校参加。団体戦A級優勝は愛媛大(4大会ぶり10回目)。準優勝は広島大だった。鳥大はB1級2位だった。
個人戦(152人参加)は広島工業大の田尻氏が2大会ぶり4回目の優勝。準優勝は広島大の柿本君だった。
1984年、第31回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島大(2大会ぶり10回目)、準優勝は高知大。鳥大はB1級4位。
個人戦(146人参加)は田尻氏が2大会連続5回目の優勝。通算5回は歴代最多になった。準優勝は広島大の大津氏だった。
この年のアマ名人戦で田尻氏がアマ名人になった。現役大学生がアマ名人になったのは1956年の木村氏(当時早大。木村14世名人の長男で、後にプロ入り。A級まで上がった)以来の快挙だった。氏はアマ名人2回・アマ竜王1回という輝かしい実績を持つ。
第32回大会は徳島大が抜け(復帰するのは第58回)、15校参加。団体戦A級優勝は高知大(23大会ぶり2回目)、準優勝は広島修道大。鳥大はB1級優勝でA級復帰。
個人戦(136人参加)は岡山大の赤畠君が3大会ぶり2回目の優勝。準優勝は広島大の柿本君だった。
個人戦(128人参加)は岡山大の赤畠君が初優勝、準優勝は松山商科大の岡本氏だった。
第30回大会は徳島大が欠場し15校参加。団体戦A級優勝は愛媛大(4大会ぶり10回目)。準優勝は広島大だった。鳥大はB1級2位だった。
個人戦(152人参加)は広島工業大の田尻氏が2大会ぶり4回目の優勝。準優勝は広島大の柿本君だった。
1984年、第31回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島大(2大会ぶり10回目)、準優勝は高知大。鳥大はB1級4位。
個人戦(146人参加)は田尻氏が2大会連続5回目の優勝。通算5回は歴代最多になった。準優勝は広島大の大津氏だった。
この年のアマ名人戦で田尻氏がアマ名人になった。現役大学生がアマ名人になったのは1956年の木村氏(当時早大。木村14世名人の長男で、後にプロ入り。A級まで上がった)以来の快挙だった。氏はアマ名人2回・アマ竜王1回という輝かしい実績を持つ。
第32回大会は徳島大が抜け(復帰するのは第58回)、15校参加。団体戦A級優勝は高知大(23大会ぶり2回目)、準優勝は広島修道大。鳥大はB1級優勝でA級復帰。
個人戦(136人参加)は岡山大の赤畠君が3大会ぶり2回目の優勝。準優勝は広島大の柿本君だった。
1982年、第27回大会は16校が参加。団体戦A級は松山商科大(現・松山大)が初優勝。松山大の優勝は今のところこの1回のみ。準優勝は愛媛大。鳥大はB1級5位で、普通なら降級するところだったが、次回から1校増えることになり、B1級の定員が5から6に増えることになり、B2級2位の広経との入れ替えに勝ち、ぎりぎり残留。
個人戦(168人参加)は愛媛大の森岡氏が5大会ぶり2回目の優勝。準優勝は広島大の木村氏。
第28回大会は広島電機大(現・広島国際学院大)が新たに加わったが、近大呉が欠場で16校参加。団体戦A級は広島修道大が6大会ぶり7回目の優勝、準優勝は松山商科大。優勝・準優勝とも私立大だったのは、これまでのところこの1回のみ。鳥大はB1級3位だった。
個人戦(160人参加)は広島工業大の田尻氏が2大会ぶり3回目の優勝。準優勝は愛媛大の尾崎氏。
1982~84年は鳥大勢のベスト8以上はなかった。これまでで1番長く開いてしまった。個人戦参加者の数が128を超えて、ベスト8入りに必要な勝数が増えたことも影響していると思う。近年は180人くらいだが、128の次は256だから、おそらく永久に超すことはないだろう。
個人戦(168人参加)は愛媛大の森岡氏が5大会ぶり2回目の優勝。準優勝は広島大の木村氏。
第28回大会は広島電機大(現・広島国際学院大)が新たに加わったが、近大呉が欠場で16校参加。団体戦A級は広島修道大が6大会ぶり7回目の優勝、準優勝は松山商科大。優勝・準優勝とも私立大だったのは、これまでのところこの1回のみ。鳥大はB1級3位だった。
個人戦(160人参加)は広島工業大の田尻氏が2大会ぶり3回目の優勝。準優勝は愛媛大の尾崎氏。
1982~84年は鳥大勢のベスト8以上はなかった。これまでで1番長く開いてしまった。個人戦参加者の数が128を超えて、ベスト8入りに必要な勝数が増えたことも影響していると思う。近年は180人くらいだが、128の次は256だから、おそらく永久に超すことはないだろう。
1981年、私が鳥大に入学した年である。これ以降は私が直接知っている話となる。
第25回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島大で3大会連続通算8回目の優勝。この広大の3連覇の後、2連覇すらない状況が7年も続くことになる。準優勝は愛媛大。鳥大はB1級4位だった。
個人戦(157人参加)は広島工業大1年の田尻氏がいきなり優勝、準優勝は島根大の大多和氏。
第26回大会は近大呉が欠場し15校参加。団体戦A級は愛媛大が優勝、準優勝は広島大。鳥大はB1級4位。
個人戦(152人参加)は田尻氏が2連覇、準優勝は島根大の伊藤氏だった。鳥大勢は浜本氏がベスト8に入った。
ここまでで松山開催は5回(第3・7・13・20・26回)あるが、その全てで地元の愛媛大が優勝している。だが次の松山開催となる第29回でこの記録はストップすることになる。その時A級に居なかったためである。B1級優勝も優勝には違いないと言えなくもないが。
現在の中四は、春は広島・岡山交互開催、秋はそれ以外の県の持ち回りとなっているが、昭和期は幹事会における話し合いで決められていた。県単位ではなく、加盟校単位だったから、加盟校の多い県が開催地になることが多かった。昭和期(第40回まで)の開催地は岡山12、広島11、松山7、松江4、鳥取3、高知2、山口1となっている。初の高松開催は1993年春、初の徳島開催は2000年秋のことだ。
第25回大会は16校参加。団体戦A級優勝は広島大で3大会連続通算8回目の優勝。この広大の3連覇の後、2連覇すらない状況が7年も続くことになる。準優勝は愛媛大。鳥大はB1級4位だった。
個人戦(157人参加)は広島工業大1年の田尻氏がいきなり優勝、準優勝は島根大の大多和氏。
第26回大会は近大呉が欠場し15校参加。団体戦A級は愛媛大が優勝、準優勝は広島大。鳥大はB1級4位。
個人戦(152人参加)は田尻氏が2連覇、準優勝は島根大の伊藤氏だった。鳥大勢は浜本氏がベスト8に入った。
ここまでで松山開催は5回(第3・7・13・20・26回)あるが、その全てで地元の愛媛大が優勝している。だが次の松山開催となる第29回でこの記録はストップすることになる。その時A級に居なかったためである。B1級優勝も優勝には違いないと言えなくもないが。
現在の中四は、春は広島・岡山交互開催、秋はそれ以外の県の持ち回りとなっているが、昭和期は幹事会における話し合いで決められていた。県単位ではなく、加盟校単位だったから、加盟校の多い県が開催地になることが多かった。昭和期(第40回まで)の開催地は岡山12、広島11、松山7、松江4、鳥取3、高知2、山口1となっている。初の高松開催は1993年春、初の徳島開催は2000年秋のことだ。
1979年、第21回大会は14校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(2大会ぶり5回目)、準優勝は高知大。鳥大はB2級優勝でB1級へ。
個人戦(128人参加)は広島修道大の藤本氏が優勝、準優勝は広島大の惣附氏。
第22回大会も14校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(2大会連続通算6回目)、準優勝は高知大。鳥大はB1級5位で降級。
個人戦(140人参加)は愛媛大の森岡氏が初優勝、準優勝は広島大の加藤氏。
1980年、第23回大会は近大呉が復帰し15校参加。団体戦A級優勝は広島大(8大会ぶり通算6回目)、準優勝は愛媛大。鳥大はB2級優勝でB1級へ。
個人戦(148人参加)は島根大の中村氏が5大会ぶり2回目の優勝、準優勝は広島修道大の藤本氏。鳥大勢は大西氏が4位になった。
第24回大会は近大呉が欠場したが、新たに徳島大が加わり15校参加。
団体戦A級優勝は広島大(2大会連続通算7回目)、準優勝は松山商科大(現・松山大)。鳥大はB1級4位。
個人戦(133人参加)は島根大の中村氏が2大会連続通算3回目の優勝、準優勝は広島修道大の先家氏。
この後の学生十傑戦で中村氏が優勝、学生王将になった。中四勢の学生王将は田中氏に次ぎ2人目。
ここまでは私が鳥大に入学する前の話。鳥大機関誌「湖陰(こかげ)」や中四国学生将棋連盟機関誌「将棋三昧」を元に書いてきた。なので、もしかしたら間違いがあるかもしれません。もしお気づきの方があればご指摘頂けると幸いです。
個人戦(128人参加)は広島修道大の藤本氏が優勝、準優勝は広島大の惣附氏。
第22回大会も14校参加。団体戦A級優勝は広島修道大(2大会連続通算6回目)、準優勝は高知大。鳥大はB1級5位で降級。
個人戦(140人参加)は愛媛大の森岡氏が初優勝、準優勝は広島大の加藤氏。
1980年、第23回大会は近大呉が復帰し15校参加。団体戦A級優勝は広島大(8大会ぶり通算6回目)、準優勝は愛媛大。鳥大はB2級優勝でB1級へ。
個人戦(148人参加)は島根大の中村氏が5大会ぶり2回目の優勝、準優勝は広島修道大の藤本氏。鳥大勢は大西氏が4位になった。
第24回大会は近大呉が欠場したが、新たに徳島大が加わり15校参加。
団体戦A級優勝は広島大(2大会連続通算7回目)、準優勝は松山商科大(現・松山大)。鳥大はB1級4位。
個人戦(133人参加)は島根大の中村氏が2大会連続通算3回目の優勝、準優勝は広島修道大の先家氏。
この後の学生十傑戦で中村氏が優勝、学生王将になった。中四勢の学生王将は田中氏に次ぎ2人目。
ここまでは私が鳥大に入学する前の話。鳥大機関誌「湖陰(こかげ)」や中四国学生将棋連盟機関誌「将棋三昧」を元に書いてきた。なので、もしかしたら間違いがあるかもしれません。もしお気づきの方があればご指摘頂けると幸いです。
1978年、第19回大会も14校が参加。団体戦A級は広島修道大が新記録の4連覇達成。準優勝は高知大。鳥大はB級優勝。
個人戦(参加者数不明。予選通過64人なので120人程度)は広島修道大同士の決勝となり、田中氏が2回目の優勝、準優勝は先家氏。鳥大勢は井上氏が4位になった。
第20回大会は新たに下関市大が加わったが近大呉が休場(22回まで続いた)し14校参加。この回からA・B1(正しくはローマ数字だが、機種依存文字なのでここではこう書く)・B2の3クラスになった。
団体戦A級は愛媛大が7大会ぶり8回目の優勝、準優勝は広島修道大。前回B級優勝でA級昇級のはずだった鳥大は3クラスになったためB1級となり、5位でB2級降級。
個人戦(128人参加)は広島修道大の田中氏が2大会連続通算3回目の優勝。準優勝は松山商科大(現・松山大)の石丸氏。
この年の学生十傑戦は中四代表の田中氏が優勝、中四勢初の学生王将となられた。
個人戦(参加者数不明。予選通過64人なので120人程度)は広島修道大同士の決勝となり、田中氏が2回目の優勝、準優勝は先家氏。鳥大勢は井上氏が4位になった。
第20回大会は新たに下関市大が加わったが近大呉が休場(22回まで続いた)し14校参加。この回からA・B1(正しくはローマ数字だが、機種依存文字なのでここではこう書く)・B2の3クラスになった。
団体戦A級は愛媛大が7大会ぶり8回目の優勝、準優勝は広島修道大。前回B級優勝でA級昇級のはずだった鳥大は3クラスになったためB1級となり、5位でB2級降級。
個人戦(128人参加)は広島修道大の田中氏が2大会連続通算3回目の優勝。準優勝は松山商科大(現・松山大)の石丸氏。
この年の学生十傑戦は中四代表の田中氏が優勝、中四勢初の学生王将となられた。
1977年、第17回大会は過去最多の14校が参加。
団体戦A級は広島修道大が2連覇。準優勝は鳥取大だった。修大には勝ちながら、松商に3-4で敗れて、惜しくも初優勝を逃した。
個人戦(108人参加)は高知大の永森氏が優勝、準優勝は広島修道大の田中氏だった。
第18回大会も14校が参加。
団体戦A級は広島修道大が3連覇。準優勝は広島大。鳥大はA級6位で降級となった。
個人戦(121人参加)は島根大の中村氏が初優勝、準優勝は高知大の永森氏だった。
この年の王座戦に中四代表として出場した広島修道大は優勝した東京大に次いで準優勝だった。残念なことに、この後中四代表は1度も4位以上になってない。
団体戦A級は広島修道大が2連覇。準優勝は鳥取大だった。修大には勝ちながら、松商に3-4で敗れて、惜しくも初優勝を逃した。
個人戦(108人参加)は高知大の永森氏が優勝、準優勝は広島修道大の田中氏だった。
第18回大会も14校が参加。
団体戦A級は広島修道大が3連覇。準優勝は広島大。鳥大はA級6位で降級となった。
個人戦(121人参加)は島根大の中村氏が初優勝、準優勝は高知大の永森氏だった。
この年の王座戦に中四代表として出場した広島修道大は優勝した東京大に次いで準優勝だった。残念なことに、この後中四代表は1度も4位以上になってない。
1976年、第15回大会も12校が参加。団体戦A級優勝は広島大(2大会連続通算5回目)、準優勝は広島修道大。鳥大はB級優勝でA級昇級。
個人戦(参加人数不明。予選通過66人なので、130人前後)は広島修道大同士の決勝となり、山中氏が優勝、松田氏が準優勝。鳥大はベスト16にも残らなかったが、これは初めてのこと。
第16回大会は松江開催のためか、高知大・愛媛大・岡山大が欠場。しかし広島経済大と山口大が新たに加わり、団体戦は11校が参加。A級は広島修道大が初優勝、準優勝は広島大。鳥大はA級3位だった。
個人戦(73人参加)は広島修道大の田中氏が初優勝、準優勝は鳥大の青江氏だった。鳥大勢の準優勝は第7回の北村氏以来9大会(4年半)ぶり。次に鳥大勢が決勝に残るのは第59回の高野になる。なお、現在は秋の準優勝者は学生十傑戦に出場できるが、当時は代表枠1だった。
個人戦(参加人数不明。予選通過66人なので、130人前後)は広島修道大同士の決勝となり、山中氏が優勝、松田氏が準優勝。鳥大はベスト16にも残らなかったが、これは初めてのこと。
第16回大会は松江開催のためか、高知大・愛媛大・岡山大が欠場。しかし広島経済大と山口大が新たに加わり、団体戦は11校が参加。A級は広島修道大が初優勝、準優勝は広島大。鳥大はA級3位だった。
個人戦(73人参加)は広島修道大の田中氏が初優勝、準優勝は鳥大の青江氏だった。鳥大勢の準優勝は第7回の北村氏以来9大会(4年半)ぶり。次に鳥大勢が決勝に残るのは第59回の高野になる。なお、現在は秋の準優勝者は学生十傑戦に出場できるが、当時は代表枠1だった。
1975年、第13回大会は広島工業大が復帰し12校が参加。
団体戦A級は愛媛大が優勝(5大会ぶり通算7回目)、準優勝は広島大。鳥大はA級6位(前回までA級5校・B級6校だったが、12校になったためA級が6校になり、鳥大が繰り上がっていた)でB級に降級した。
個人戦は初めて参加者が100を超えて103人参加。優勝は広島大の重本氏(3大会連続通算4回目。どちらも新記録)、準優勝は広島修道大の山中氏だった。この年の学生名人戦に出場した高知大の永森氏が学生名人になられた。中四の代表が学生名人になったのは現在に至るまでこの年の永森氏だけだ。永森氏は1991年には支部名人も獲得されている。
第14回大会は前回と同じ14校が参加。
団体戦A級は広島大が優勝(2大会ぶり通算4回目)、準優勝は高知大。鳥大はB級2位だった。この大会からC級(2軍戦)が出来、7校が参加した(鳥大が優勝)。
個人戦(42人参加)は広島修道大の松田氏が優勝、準優勝は広島大の太巻氏だった。
この大会からC級ができて団体戦の参加者はおそらく過去最高だったはず。それなのに個人戦の参加者が前回の半分以下なのは何かあったのだろうか? ちなみに開催地は岡山だ。
団体戦A級は愛媛大が優勝(5大会ぶり通算7回目)、準優勝は広島大。鳥大はA級6位(前回までA級5校・B級6校だったが、12校になったためA級が6校になり、鳥大が繰り上がっていた)でB級に降級した。
個人戦は初めて参加者が100を超えて103人参加。優勝は広島大の重本氏(3大会連続通算4回目。どちらも新記録)、準優勝は広島修道大の山中氏だった。この年の学生名人戦に出場した高知大の永森氏が学生名人になられた。中四の代表が学生名人になったのは現在に至るまでこの年の永森氏だけだ。永森氏は1991年には支部名人も獲得されている。
第14回大会は前回と同じ14校が参加。
団体戦A級は広島大が優勝(2大会ぶり通算4回目)、準優勝は高知大。鳥大はB級2位だった。この大会からC級(2軍戦)が出来、7校が参加した(鳥大が優勝)。
個人戦(42人参加)は広島修道大の松田氏が優勝、準優勝は広島大の太巻氏だった。
この大会からC級ができて団体戦の参加者はおそらく過去最高だったはず。それなのに個人戦の参加者が前回の半分以下なのは何かあったのだろうか? ちなみに開催地は岡山だ。
1974年、第11回大会は岡山商科大が欠場したためB級に広大Bが入り、10校11チーム参加。優勝広島大(2連覇)、準優勝愛媛大。鳥大はB級3位。
個人戦(78人参加)は広島大同士の決勝で重本氏が優勝(2回目)、玉井氏が準優勝。
第12回大会は11校参加。団体戦優勝は広島大(3連覇)、準優勝高知大。鳥大はB級2位。
個人戦(74人参加)は前回と同じで重本氏優勝(2回連続通算3回目)、玉井氏準優勝だった。
この年の王座戦には前年に続き広大が出場したのだが、優勝の名古屋大に次いで準優勝という素晴らしい成績だった。ちなみに前年は最下位(8位)だった。中四勢の優勝は現在に至るまで1度もなく、準優勝もこの時の広大と1977年の広島修道大のみ。3位、4位もなく、5位は4回ある(近年では2009年の岡山大)。
第10回までは参加した7回のうち6回で個人戦3位以上を輩出した鳥大だが、この年と翌年は4回ともベスト16が最高だった。
個人戦(78人参加)は広島大同士の決勝で重本氏が優勝(2回目)、玉井氏が準優勝。
第12回大会は11校参加。団体戦優勝は広島大(3連覇)、準優勝高知大。鳥大はB級2位。
個人戦(74人参加)は前回と同じで重本氏優勝(2回連続通算3回目)、玉井氏準優勝だった。
この年の王座戦には前年に続き広大が出場したのだが、優勝の名古屋大に次いで準優勝という素晴らしい成績だった。ちなみに前年は最下位(8位)だった。中四勢の優勝は現在に至るまで1度もなく、準優勝もこの時の広大と1977年の広島修道大のみ。3位、4位もなく、5位は4回ある(近年では2009年の岡山大)。
第10回までは参加した7回のうち6回で個人戦3位以上を輩出した鳥大だが、この年と翌年は4回ともベスト16が最高だった。
1973年、第9回大会は岡山商科大が欠場し、9校が参加。
団体戦は愛媛大と高知大が2チーム参加で、11チームとなった。
この大会から個人戦に2勝通過2敗失格の予選が採用された関係で、日程の都合から団体戦を2リーグに分けることになり、この期に限り王位戦の紅白リーグのようにAリーグとBリーグ(A級とB級ではなく、対等の関係)に分け、1・2位の4校で1~4位を決めるトーナメント、3・4位の4校で5~8位を決めるトーナメント、5位同士で9位決定戦を、それぞれ戦った。
その結果、優勝は高知大A、準優勝は広島大となった。鳥大は5位だった。
個人戦(64人参加)は愛媛大の岡田氏が2回目の優勝、準優勝は広島大の玉井氏だった。鳥大勢は岡本氏が4位、北村氏がベスト8だった。
第10回大会は岡山大が復帰して11校が参加。
団体戦は前回の成績によりA級5校とB級6校に分かれての戦いとなった。また、前回まで認められていた1校2チーム参加はできなくなった。
優勝は広島大(初)、準優勝は愛媛大だった。この年に限り春の優勝校と秋の優勝校とで王座戦代表決定戦が行われ、広島大が勝った。鳥大はA級5位で降級となった。
個人戦は予選採用の効果か、過去最高の80人が参加。優勝は広島修道大の田村氏、準優勝は広島大の玉井氏だった。鳥大勢は藤原氏(故人)が3位、岡本氏が4位だった。鳥大勢がベスト4に2人同時に入ったのは、これまでのところではこの1回だけだ。
団体戦は愛媛大と高知大が2チーム参加で、11チームとなった。
この大会から個人戦に2勝通過2敗失格の予選が採用された関係で、日程の都合から団体戦を2リーグに分けることになり、この期に限り王位戦の紅白リーグのようにAリーグとBリーグ(A級とB級ではなく、対等の関係)に分け、1・2位の4校で1~4位を決めるトーナメント、3・4位の4校で5~8位を決めるトーナメント、5位同士で9位決定戦を、それぞれ戦った。
その結果、優勝は高知大A、準優勝は広島大となった。鳥大は5位だった。
個人戦(64人参加)は愛媛大の岡田氏が2回目の優勝、準優勝は広島大の玉井氏だった。鳥大勢は岡本氏が4位、北村氏がベスト8だった。
第10回大会は岡山大が復帰して11校が参加。
団体戦は前回の成績によりA級5校とB級6校に分かれての戦いとなった。また、前回まで認められていた1校2チーム参加はできなくなった。
優勝は広島大(初)、準優勝は愛媛大だった。この年に限り春の優勝校と秋の優勝校とで王座戦代表決定戦が行われ、広島大が勝った。鳥大はA級5位で降級となった。
個人戦は予選採用の効果か、過去最高の80人が参加。優勝は広島修道大の田村氏、準優勝は広島大の玉井氏だった。鳥大勢は藤原氏(故人)が3位、岡本氏が4位だった。鳥大勢がベスト4に2人同時に入ったのは、これまでのところではこの1回だけだ。
1972年、第7回中四は岡山商科大が欠場で8校が参加。
団体戦は愛媛大と松山商科大が2チーム参加で10チームの総当たりの結果、優勝は愛媛大B、準優勝も愛媛大Aという、驚異的な結果となった。2大会ぶり参加の鳥大は5位。
個人戦(61人参加)は広島大の玉井氏が2連覇。準優勝は鳥大の北村氏で、鳥大から初の学生名人戦出場となった。
第8回は広島商科大(現・広島修道大)が加わり10校参加。
松江開催のためか団体戦は鳥大と島大が2チーム参加で12チーム。優勝は愛媛大で3大会連続通算6回目。準優勝は広島大。鳥大はAが5位、Bが11位だった。
個人戦(参加46人)は広島大の重本氏が優勝、準優勝は愛媛大の松浦氏。鳥大勢は北村氏が3位だった。
団体戦は愛媛大と松山商科大が2チーム参加で10チームの総当たりの結果、優勝は愛媛大B、準優勝も愛媛大Aという、驚異的な結果となった。2大会ぶり参加の鳥大は5位。
個人戦(61人参加)は広島大の玉井氏が2連覇。準優勝は鳥大の北村氏で、鳥大から初の学生名人戦出場となった。
第8回は広島商科大(現・広島修道大)が加わり10校参加。
松江開催のためか団体戦は鳥大と島大が2チーム参加で12チーム。優勝は愛媛大で3大会連続通算6回目。準優勝は広島大。鳥大はAが5位、Bが11位だった。
個人戦(参加46人)は広島大の重本氏が優勝、準優勝は愛媛大の松浦氏。鳥大勢は北村氏が3位だった。
1971年、第5回中四は初めて鳥取で開催された。
この大会から1大学2チームの参加が認められ、前回まで3連覇の王者愛媛大が2チーム参加。しかし岡山大が抜け(次に復帰するのは1973年の第10回大会)、高知大も欠場のため、8大学参加。
団体戦は地元山陰の鳥大と島大が優勝を争い、直接対決を4-3で制した島根大が初優勝、鳥大が準優勝だった。3位は同勝点同勝数で愛媛大Aと愛媛大B。これは当時の愛媛大の層の厚さを示すものだ。
個人戦(参加42人)は愛媛大の岡田氏が初優勝、準優勝は広島大の玉井氏だった。鳥大勢は笠田氏が3位、北村氏がベスト8。
参加者数が極端に少ないが、これは鳥取開催なのが影響したのだと思う。今と違って当時は交通の便が悪く、新幹線は東京ー新大阪間のみで、高速道路も中四国にはまだない時代だ。
第6回は鳥大は不参加だった。北村氏に聞いた話だと、大会の日程が直前になって急に変更になったそうで、既にレンタカーを借りた後だったので、皆で旅行に出掛けたということだった。キャンセルして借り直せばいいのにと思うが、急な日程変更への抗議行動だったのかも。
団体戦優勝は愛媛大(4回目)、準優勝は広島大。個人戦優勝は広島大の玉井氏(初)、準優勝は愛媛大の吉川氏だった。
この大会から1大学2チームの参加が認められ、前回まで3連覇の王者愛媛大が2チーム参加。しかし岡山大が抜け(次に復帰するのは1973年の第10回大会)、高知大も欠場のため、8大学参加。
団体戦は地元山陰の鳥大と島大が優勝を争い、直接対決を4-3で制した島根大が初優勝、鳥大が準優勝だった。3位は同勝点同勝数で愛媛大Aと愛媛大B。これは当時の愛媛大の層の厚さを示すものだ。
個人戦(参加42人)は愛媛大の岡田氏が初優勝、準優勝は広島大の玉井氏だった。鳥大勢は笠田氏が3位、北村氏がベスト8。
参加者数が極端に少ないが、これは鳥取開催なのが影響したのだと思う。今と違って当時は交通の便が悪く、新幹線は東京ー新大阪間のみで、高速道路も中四国にはまだない時代だ。
第6回は鳥大は不参加だった。北村氏に聞いた話だと、大会の日程が直前になって急に変更になったそうで、既にレンタカーを借りた後だったので、皆で旅行に出掛けたということだった。キャンセルして借り直せばいいのにと思うが、急な日程変更への抗議行動だったのかも。
団体戦優勝は愛媛大(4回目)、準優勝は広島大。個人戦優勝は広島大の玉井氏(初)、準優勝は愛媛大の吉川氏だった。
1970年、第3回中四は鳥大と松山商科大(現・松山大)が加わったが、広工が抜けた(再び加わるのは1975年の第13回)ため7校が参加した。
団体戦優勝は愛媛大(2連覇)で準優勝は岡山理科大。個人戦(参加60人)優勝は広島大の長谷川氏で、準優勝は近畿大呉の三谷氏だった。
初参加の鳥大は5位。個人戦では大寺氏が3位、北村氏がベスト8だった。
第4回は島根大・岡山大・高知大の3校が加盟、10校が参加。
団体戦優勝は愛媛大(3連覇)、準優勝は高知大だった。個人戦(参加64人)は愛媛大の吉川氏が3回目の優勝、準優勝は愛媛大の尾首氏だった。
鳥大は愛大と高大に3-4で負けて3位だった。
1970年といえば大阪万国博覧会が開催された年だ。
団体戦優勝は愛媛大(2連覇)で準優勝は岡山理科大。個人戦(参加60人)優勝は広島大の長谷川氏で、準優勝は近畿大呉の三谷氏だった。
初参加の鳥大は5位。個人戦では大寺氏が3位、北村氏がベスト8だった。
第4回は島根大・岡山大・高知大の3校が加盟、10校が参加。
団体戦優勝は愛媛大(3連覇)、準優勝は高知大だった。個人戦(参加64人)は愛媛大の吉川氏が3回目の優勝、準優勝は愛媛大の尾首氏だった。
鳥大は愛大と高大に3-4で負けて3位だった。
1970年といえば大阪万国博覧会が開催された年だ。