平成23年、米子に松崎・黒田さん入学。
平成24年、湖山に谷口(兄)・平井、米子に山路・上谷・中井さん入学。
湖山は3年ぶり。山路・上谷は詰将棋作家として超有名。指し将棋で言えば渡辺・豊島クラスだ。
平成25年、湖山に高垣・古井・大石橋・田中(佑)・池田・谷口(弟)、米子に梅野・田中(一)・佐野さん入学。実に9人! この辺になると今も現役と交流がある者が多い。
平成26年、湖山に榎本・田末・矢久間・矢野入学。米子ゼロ。
平成27年、湖山に大谷・中村・石川、米子は今6年の6人(中野・徳川・飯橋・西村・辻・志磨)入学。
平成28年、大谷が徳島大に入り直し。昨年学生名人戦と学生十傑戦に出場、十傑戦で7位入賞を果たした。
湖山に新田・高城・高取、米子に5年の4人(北野・松岡・山新・綾木)入学。北野は昨年中四団体戦における鳥大勢の最多連勝記録16を達成した。
ここから下は今も現役なので省略します。
平成14年、辰巳・山根(知)・柳瀬(兄)・茂原・岩田入学、牧本3年編入。
この年は多かったのだが…。
平成15年、昭和61年以来のOBゼロ。そして平成16年もゼロ。2年連続ゼロは初めて。
この年までで野口が卒業し、旧医学部将棋部が消滅。
平成17年、窪山・粟谷入学。
平成18年、中原(故人)入学。
平成19年、石田・後藤(隆)・柳瀬(弟)・奥本・三俣入学。
平成20年、名島・中山・宮脇入学。
平成21年、畠中・吉尾・藤田・黒川(旧姓)さん入学。
これまでにも入部した女性は居たが、半年以上続いたのは黒川さんが初めて。卒業まで残って初のOGとなった。
平成22年、この年から医学科は1年から米子となり、湖山を経験しなくなった。黒川さんが米子に移り、後藤と新1年の金谷とで新医学部将棋部結成。これが現在まで続いている。
平成13年、安田・河村・橋本入学。
学生名人戦に美澤が出場。これで鳥大勢が6年連続で学生名人戦出場。
秋の中四団体戦で鳥大がA級優勝。昭和60年春以来、2回目の優勝で、秋大会優勝なので王座戦初出場となった。ちなみに昭和60年当時は春の全国大会はなかった。
3月、学生選手権に初参加。神戸大・東京都立大・東大寺学園中・慶応大に勝って6位入賞となった。
この頃を第4期黄金時代と呼んでいる。

鳥大将棋部史9

2020年5月1日 連載
平成9年、笹尾・倉信入学。
この年の学生名人戦に高野が出場。
平成10年、後藤(浩)・田中入学。
高野が2年連続で学生名人戦出場。
この年、高野・野口・倉信により(旧)鳥大医学部将棋部結成。
平成11年、三潴・田村入学。
蔵元が学生名人戦出場。
平成12年、山﨑・矢野・金田・日野入学。
高野が3回目の学生名人戦出場。蔵元が学生十傑戦出場。

鳥大将棋部史8

2020年4月30日 連載
平成4年、蔵原・福羅・高野・青木入学。
高野は中四に21回参加、通算184対局の中四記録を作った。
現在の中四は12回しか出られない(再入学という裏技はあるが)。1大会で最多対局は団体戦5局、個人戦予選3局、本戦トーナメント1回戦から出て決勝まで行けば7局。計15局。12大会で180局。184には届かない。
平成5年、野口入学。
平成6年、佐々木・水野・安部入学。
平成7年、蔵元・西元入学。
平成8年、美澤・加藤入学。
この年の春の中四個人戦で佐々木が4位になり、学生名人戦に出場した。昭和47年の北村氏以来の快挙だった。しかしこれが他の部員たちを刺激した。自分だって行けると。

鳥大将棋部史7

2020年4月28日 連載
昭和61年は53年以来2度目のOBゼロの年。
この年は2大会連続降級でB2級に。
昭和62年は4月を迎えた時点で湖山の部員が柴原のみ。廃部の危機だったが杉山・小藤の入学で何とかつながった。しかし中四では毎回7人に届かず不戦敗を抱えての勝負で、平成4年春の昇級まで11大会連続B2級となった。暗黒時代である。
昭和63年、松本・谷口(寛)入学。
平成元年、武藤・山口(利)入学。
平成2年、川原・堀江・平井(孝)・楠入学。
4人残ったのは昭和58年以来7年ぶり。
平成3年、西川・青山・仲田・笹山入学。
西川は全国青年大会将棋の部で全国制覇した。マイナーな大会ではあるが、全国チャンプだ。

鳥大将棋部史6

2020年4月27日 連載
昭和56年、私・小坂・村尾入学。ただし小坂は2年、村尾が3年の時入部。
この年、院生以外の先輩は岸本氏・浜本氏・森上氏・山本氏・池永氏の5人のみ。団体戦の7人に足りない状況だった。今や湖山だけでも3倍だから、隔世の感がある。
昭和57年、山根・桐谷・宮地入学。
昭和58年、畑中・山口(康)・原田入学。山口は恵梨子女流二段の父。畑中はアマ名人戦と赤旗名人戦で各1回県代表。
昭和59年、宇仁菅入学。今や「ストレッチマンレジェンド」。ほとんどの人が知るスーパースターだ。
昭和60年、柴原・横田入学。
この年の春の中四団体戦で鳥大は初のA級優勝を果たした。忘れもしない、1985年4月28日、会場は宍道湖畔の松江市青年センター。大将宮地4-0、副将私3-1、三将山本氏3-1、四将桐谷2-2、五将原田2-2、六将山口2-2、七将宇仁菅4-0。
これにより西日本大会に3回目の出場。今でも鮮明に覚えている。

鳥大将棋部史5

2020年4月26日 連載
昭和51年、岸本氏・保田氏・大西氏・武村氏・又吉氏入学。
この年の春の中四で団体戦B級優勝、西日本大会へ出場。今と違って2リーグ時代はA級優勝校とB級優勝校が出場できた。そして西日本大会を記念して機関誌「湖陰(こかげ)」創刊。
昭和52年、浜本氏・宅見氏入学。
この年の春の中四で団体戦A級2位。この頃を第2期黄金時代と呼んでいる。しかしこの年以降、新入部員の数が減る。
昭和53年、初のOBゼロの年。2回目の西日本大会出場。
昭和54年、森上氏入学。
この年OB会結成。第1回OB総会が井上氏の地元、兵庫県たつの市の国民宿舎赤とんぼ荘で開催された。
昭和55年、山本氏・池永氏・米原氏入学。ただし米原氏は2年の時入部。
ここまでは私も湖陰や先輩諸氏の話で知っていること。この後は私自身が直に知っている話なので、もう少し詳しく書くかも。

鳥大将棋部史4

2020年4月25日 連載
昭和47年、浦林氏・岡本氏・竹本氏・西田氏入学。
浦林氏はOB会長、岡本氏は鳥大歴代で唯一人の中四理事長経験者。この学年は今もOB総会の出席率が高い。
この年の春の中四個人戦で北村氏が準優勝、学生名人戦へ出場。次に鳥大から学生名人戦出場者が出るのは平成9年。実に25年後となる。
昭和48年、山口(賢)氏・若村氏(故人)入学。
OB名簿に名前が残っている山口姓は3人居るが、全員が部長経験者。
昭和49年、清座氏・富田氏・高橋氏・関藤氏・津田氏(故人)・高木氏・木下氏・吉田氏入学。
富田氏は岐阜将棋クラブの席主。ここから3年は部員が多い。
昭和50年、青江氏・内山氏・井上氏(故人)・組原氏・和泉氏入学。
井上氏は昭和54年の第1回OB総会の幹事だが、平成28年に亡くなられた。その功績を残すため、OB総会時に井上杯と銘打った麻雀大会を開催。ただ会場の都合でまだ1回しか開催できてない。今時は麻雀ができる宿泊施設がなかなかないようだ。

鳥大将棋部史3

2020年4月23日 連載
昭和43年、徳永氏・林氏入学。
昭和44年、清水氏・大下氏(故人)入学。
昭和45年1月、島大との定期戦開始。
この年丹生氏・中野(旧姓山根)氏・野村(泰)氏(故人)入学。5月、中四国学生将棋大会初参加。6月、部に昇格。
昭和46年、藤原氏(故人)・渡辺氏入学。
この年の春の中四(第5回)団体戦で準優勝。この頃を第1期黄金時代と呼んでいる。

鳥大将棋部史2

2020年4月22日 連載
昭和42年、笠田氏・太田氏・大寺氏が入学。
笠田氏に聞いた話だと、前年出来たはずの将棋同好会は活動しておらず、橋場氏もすでにいらっしゃらなかったとのこと。それで改めて将棋同好会を立ち上げてたそうだ。なので創立年は昭和42年とすべきではないかとの意見だった。
笠田氏は私が現役の頃は鳥取の大会によく参加されていて、県中部のタイトルをいくつか獲得、3人代表制時代の中国名人戦県代表にもなられた。
太田氏は支部対抗戦の愛知県代表にもなられたが、親しかった板谷進九段が亡くなって将棋を指すのを止められたとのこと。でもOB総会には近年再び参加されている。
大寺氏は2代目会長(実質初代?)。OB総会にはずっと参加されてなかったが、昨年初めて参加された。
橋場氏は音信普通、北村氏は亡くなられたので、今はこの学年が最長老。といってもまだ70を超えられたばかり。

鳥大将棋部史1

2020年4月20日 連載
5月6日まで鳥大将棋部も鳥取将棋センターも休みで、大会もことごとく中止か延期。この日記に書くネタもないので、連載を始める。題して「鳥大将棋部史」。以前にも同様のことを書いた記憶もあるが、もう何年も前なので、今の部員は見てないはず。
鳥大将棋部は昭和41年(1966年)後期に鳥取大学将棋同好会として発足した。昭和40年入学の橋場五郎氏が初代会長で、他には41年入学の北村重嗣氏がいらしたが、他の人の名は伝わってない。
北村氏は鳥大将棋部史上最強のOBであり、中国名人1期(昭和54年)、山陰名人2期、朝日アマ名人戦山陰代表1回、アマ名人戦県代表3回、レーティング県代表1回などの実績がある。
北村氏は平成26年に癌で亡くなられた。この年より、OB名人戦を北村杯と名付けて今も続けられている。

部史19

2014年9月1日 連載
11年、湖山は新入部員ゼロだったが、米子に松崎・池田(傑)・黒田さん・高見さんが入学。ただし黒田さんの入部は2年の終わり、高見さんの入部は3年になってから。
47代部長は吉尾。第85回中四、B1級優勝でA級復帰。中原の墓前に報告したのは言うまでもない。第86回中四、A級6位で降級。残念ながらこの時以来A級に上がれてない。この秋で丸3年になる。そろそろ上がりたいところだ。
12年、湖山に谷口(萌)・平井(宏)・小林さん・中井さん・松崎さん・水元さん・宮本さん・末兼さん、米子に山路・上谷入学。ただし谷口以外の9人は全員2年になってから入部。女子6人は全員米子に移ってからだ。
48代部長は吹上。第87回中四、B1級2位。あと1勝で昇級を逃す。第88回中四、鳥取開催でB1級3位。個人戦、窪山がベスト8。
13年、湖山に古井・高垣・田中(佑)・池田(ま)・大石橋・寺元・谷口(日)、米子に梅野入学。谷口(日)は谷口(萌)の弟で、兄弟部員は柳瀬兄弟に次いで2組目。同時現役は初(柳瀬兄弟は兄卒業直後に弟入学)。ただし谷口弟の入部は今年。
49代部長は小倉。第89回中四、B1級2位。またもあと1勝で昇級を逃す。その後小倉が来なくなったため、谷口に部長交代。第90回中四、B1級4位。個人戦、吹上がベスト8。
そして今年、湖山に榎本・田末・矢野・矢久間・岡田・月岡・大迫入学。51代部長は古井。第91回中四、B級4位。
このところA級に上がれてないが、惜しい時はあった。また、現3年以下の部員が多く、特に女子部員数は全国でも有数である。ただ、湖山の部員と米子の部員の間に交流がほとんどないのが大きな問題点。以前は医学部の学生も湖山で勉強していたのだが、今は医学科は湖山を全く経験しないからだ。なんとか交流の機会を作りたい。今度のOB・OG総会はめったにないチャンスだと思うが、どれだけ参加してくれるか?

部史18

2014年8月28日 連載
08年、名島・中山・宮脇・依藤入学。44代部長は中原。第79回中四、B級3位。第80回中四、B1級3位。個人戦、石田がベスト8。石田は6年居たので、最大12回参加できたはずだが、実際には6回しか参加せず、個人戦はわずか2回のみの参加で、この大会以降は団体戦にしか出場しなかった。彼がもっとたくさん参加していたら、美澤以来となる学生名人戦出場も夢ではなかったのに残念だ。
09年、吉尾・畠中・國田・黒川さん・藤田入学。45代部長は柳瀬(昌)。第81回中四、B級4位。第82回中四、この大会には鳥大将棋部史上初めて女子部員である黒川さんが参加した。これで士気が上がったからか、B1級優勝で4年半ぶりにA級復帰。
10年、國田と黒川さんが米子に移り、後藤とともに医学部将棋部を立ち上げた。この年から医学科の学生は入学時から米子となり、湖山に吹上、米子に金谷入学。46代部長は名島。第83回中四、A級4位。第84回中四、A級6位で降級。この大会の直後に中原が急死した。現役の部員が亡くなったのは鳥大将棋部史上初めてのことだった(最後であってほしい)。葬儀には都合が悪かった1人を除き、湖山の部員がほぼ全員出席。中原の亡骸の前で春の大会でのA級復帰を誓った。

部史17

2014年8月27日 連載
05年、窪山・粟谷入学。42代部長は鏡味。第73回中四、B1級優勝でA級復帰。第74回中四、A級6位で降級。
06年、中原(故人)入学。第75回中四、B級3位。第54回大会でA級に上がって以降、B級に落ちてもすぐに上がっていた。B級から上がれなかったのは10年ぶりのことだ。第76回中四は10年ぶりの鳥取開催だったのだが、その直前に部長の鏡味が退部、急きょ窪山が43代部長に。7人ちょうどしか居なかった部員が6人となり、地元開催なのに不戦敗を食らうという、なんともさびしい事態になりB級4位。
07年、柳瀬(昌)・後藤(浩)・石田・三俣・奥本入学。5年ぶりに大量の新入部員が入った。柳瀬(昌)は柳瀬(佳)の実弟で、今度のOB・OG総会の幹事。石田は中学生選抜・高校新人戦・高校選手権個人・高校竜王戦で鳥取県代表を経験しており、高校選手権と高校竜王戦では全国ベスト16まで勝ち上がった。鳥大将棋部史上最強の新人である。第77回中四、B級4位。第78回もB級4位。新人が多く入ったとはいえ2年以上が少なく、戦力を回復するにはまだしばらく時間が必要だった。ちょうど今の鳥大将棋部と似た状況と言えるか。

部史16

2014年8月26日 連載
02年、柳瀬(佳)・辰巳・山根(知)・茂原・岩田入学。37代部長は金田。第67回中四、A級3位。第68回中四、A級4位。
03年、この学年は住友・赤澤などが入ったが、のちに全員辞めた(後述)。38代部長は島本(後に退部)。第69回中四、A級3位。第70回中四、A級5位。個人戦、高野が3位。この大会が高野にとって最後の中四となった。12年間(前述のように1年の時は春秋ともに不参加だったので実質は11年)で21回出場、団体戦54勝41敗、個人戦60勝29敗。総合114勝70敗。総対局数は実に184局で、中四歴代1位である。
04年、この年も鏡味が居たがのちに退部。2年連続で1人も残らなかったのは、鳥大将棋部史上初だ。39代部長は柳瀬。第71回中四、団体A級5位。第72回中四、団体A級6位で降級。個人戦、住友がベスト8。この大会の後、40代部長になった住友が突然退部。急きょ赤澤が41代部長となった。しかしその赤澤も年度変わりに大学から居なくなってしまった。住友は個人戦でベスト8入りしたし、赤澤も団体戦で佐々部君(後に中四名人)に勝った実力者だったのに、その2人が抜けたのは鳥大にとって大ダメージだった。部員数も02年をピークに減少を続け、06年には危機的状況を迎えることになる。

部史15

2014年8月22日 連載
01年、今世紀最初の年である。橋本・安田・河村入学。36代部長は田村。第65回中四、A級5位。個人戦、美澤が4位となり学生名人戦に出場、1回戦で東大の山田君に勝った。全国大会における鳥大の初勝利だ。
第66回中四、鳥大は初戦香川大に2-5負けスタート。しかしその後広島大に5-2、山口大に4-3、島根大に5-2、愛媛大に4-3と4連勝。この時点で山口大ー島根大が3-3となっており、山大が勝てば山大優勝、島大が勝てば鳥大優勝という状況。ここで島大の松岡君が勝ってくれて、鳥大が2回目のA級優勝、初の王座戦出場となった。個人戦、高野がベスト8。
初出場の王座戦はなぜかクリスマス前の平日開催。医学部の定期試験と日程が重なり、野口は2日目から、高野・田村は3日目のみしか参加できなかった。これが大きく響き、鳥大は9戦全敗で最下位となった。
3月、初めてキリンビバレッジカップ学生将棋選手権(現在はキリンがスポンサーを降りたため、単に学生将棋選手権という名前に変わっている)に参加。神戸大に5-0、都立大に3-2、東大寺学園中に3-2と3連勝。4戦目高校選手権団体優勝の大阪星光学院高に2-3で敗れたが、最終戦慶応大に3-2で勝って6位入賞を果たした。

部史14

2014年8月21日 連載
99年、田村・三潴入学。34代部長は加藤。第61回中四、A級5位。個人戦、蔵元が準優勝で学生名人戦に出場、後藤がベスト8。第62回中四、後藤の欠場が痛く、A級6位でB1級に降級。
2000年、金田・山﨑・矢野・日野入学。35代部長は後藤。第63回中四、B1級優勝でA級に復帰。個人戦、高野が3位となり、2年ぶり3回目の学生名人戦出場。西日本個人戦では名大の長谷川君、熊本大の土橋君という強豪2人を倒してベスト8入りした。西日本大会における鳥大の最高成績である。
第64回中四、A級3位。個人戦、蔵元が2回目の準優勝で学生十傑戦出場。鳥大歴代で個人戦優勝はまだ1度もなく(現在団体戦に出場している大学で個人戦優勝経験がないのは鳥大と岡理の2校のみ。岡理には沖田君・沖君という優勝候補が居るので、鳥大のみになるのは時間の問題か?)、準優勝は北村氏・青江氏・高野・蔵元の4人のみ。このうち蔵元だけが2回準優勝していて、学生十傑戦出場は蔵元のみである。こう書くと蔵元最強か?という感じだが、彼は15回参加して団体戦34勝34敗の五分。個人戦は37勝25敗とさすがに大きく勝ち越しているが、予選落ち・1回戦負け・1回戦負け・ベスト16・2回戦負け・ベスト8・予選落ち・準優勝・予選落ち・予選落ち・準優勝・1回戦負け・2回戦負け・予選落ち・予選落ちという成績は誰が見ても変だろう。ベスト8の後が予選落ち、次に準優勝するが、その後2回連続予選落ち。その次にまた準優勝するが、その後も2回予選落ち。安定感がないとかいった次元の話ではないだろう。準優勝2回以外にもベスト8・ベスト16があるのだから「まぐれ勝ち」とは言えないだろうが、準優勝後に4回も予選落ちしているのはどう説明したらいいのか? やたら三振の多いホームランバッターといったところか。

部史13

2014年8月20日 連載
96年、美澤・加藤入学。31代部長は佐々木。第55回中四、A級6位で降級。しかし個人戦で佐々木が4位となり、鳥大からは72年の北村氏以来、実に24年ぶりの学生名人戦を果たした。そしえこれがきっかけとなり、この後しばらく代表ラッシュとなる。第56回中四、B1級優勝ですぐにA級復帰。
97年、笹尾・倉信入学。32代部長は西元。第57回中四、A級4位。個人戦、高野が3位となり学生名人戦出場。美澤もベスト8。第58回中四、A級5位。個人戦、美澤が4位。
98年、後藤(浩)・田中(嘉)入学。33代部長は美澤。第59回中四、高野が準優勝して、2年連続2回目の学生名人戦出場。蔵元もベスト8。第60回中四、A級4位。
1970年の鳥大初参加から95年までの26年間で、学生名人戦出場は北村氏の1回のみだったのに、96年から2001年まで6年連続で学生名人戦出場を果たすことになる。なぜこうなったのか? 高野が書いたエッセイの中で面白いことを言っている。「佐々木ができるなら俺にもできるだろう」という雰囲気が生まれた、と。ずいぶんと佐々木を馬鹿にした話だが、佐々木の中四通算成績は9回出場で団体戦17勝25敗と8つも負け越し、個人戦は22勝19敗と一応勝ち越しだが、9回出場で19敗というのは非常に珍しい成績だ。通常1回の個人戦では2敗までしかできないので、18敗なら誰でもできるが、19敗目は3位決定戦で負けないといけないのだ。しかしベスト4まで勝ち残るほどの実力を持つ者が9回参加して1度も予選2連勝がないというのはおかしな話だ。そんな佐々木がベスト4になったことで、「それなら自分も」と思う者が出てきたとしても不思議はないというわけだ。

部史12

2014年8月19日 連載
93年、野口入学。27代部長は西川。第49回中四、A級6位でB1級に逆戻り。第50回中四、B1級2位。
94年、佐々木・安部・水野・保田入学。28代部長は福羅。第51回中四、B1級3位。第52回中四もB1級3位。
95年、蔵元・西元入学。29代部長は野口だったが、任期途中で菅原(野口の同期。のちに退部)に交代。第53回中四もB1級3位。この時はベスト16に3人(仲田・高野・青木)残り、この後にやってくる第4期黄金時代が到来しつつあることをうかがわせた。
第54回中四、団体戦B1級優勝で3年ぶりにA級に復帰。個人戦で西川がベスト8。個人戦のベスト8は私以来、実に9年ぶりだ。これ以降はこれまでと打って変わって、鳥大勢が個人戦で上位に残るのが当たり前の時代がやってくる。

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